水戸偕楽園
2018.3.13
小学生の頃、父の転勤でつくば学園都市へ移り住んだ時以来だから、何十年ぶり?
家族写真の中の記憶しかなく、 初めて訪れたような新鮮な感動があった。
例えば、これ。
駐車場を出て偕楽園へ向かう途中、橋の上から魚がいないか見ている時に自分たちの影に気付いてパチリ。
水辺の石に辿り着いた花びらたちにパチリ。
吐玉泉(とぎょくせん)と名付けられた湧き水。
澄んだ水がキラキラしていてとてもキレイだった。
昔は茶の湯に用いていたそう。眼病にも効くらしい。
好文亭に入ってすぐのところにあった梅の木に鳥が止まってパチリ。ナイスタイミングで来てくれた。何の鳥かな?
奥へ進むと現れた竹林。かぐや姫が出てきそう。
子供の頃、両親にいろんな所へ連れて行ってもらったが、楽しかったのは遊園地とかプールとか母の故郷の京都でいとこ達に会える時とか、子供が遊べる所ばかり。
こんな歴史的な場所に連れてきてもらっても感動すら覚えなかったのに、歳を重ねると感じ方が変わるんだなぁ〜。
花ひとつとっても、その季節に咲くことが当たり前に思っていたのが当たり前のことではなく、たくさんの人の手によって管理されていたり、日光や水や土壌などの自然の恵みがあるからこそ、毎年小さな花を沢山咲かせてくれるのだ。
梅の種類の多さや可憐に咲く一輪一輪にさえも心の底から感謝とか感動とかが湧き上がってくる。
梅の木のたもとに広がる雑草(オオイヌノフグリ)にさえ、青々とした小さな姿にジ〜ンとくる。雑草って、よ〜く見ると意外に可愛かったりする。花器に飾ったらステキかも。
若い頃は、歳をとることにとてもとても抵抗があった。今もないと言えば嘘になる (c" ತ,_ತ)
シミ・シワ・たるみ…いや〜な響き。
でも、歳をとるって悪いことばかりじゃない。
当たり前のことが当たり前でなく感じるようになっていって、心が豊かになっていく。
花や鳥の儚(はかな)い命を感じ取り、だからこそ、輝いている今に感動を覚える。
梅や桜などの木に咲く花は、新緑の優しい緑に、膨らんできた蕾(つぼみ)に、開花した花に生命力を感じ、ひらひらと落ちる花びらや、花が散った後に地面を風で舞ったり水辺に浮かぶ花びらの可愛さに気付く。
こんな想い、若い頃は味わえなかった。
そして、締めはコレでしょ。
大洗おさかな市場のいくら丼❗️
大粒のいくらがこれでもかと入っていて食べ応え抜群。
大杯のようなお椀に入ったあさりのみそ汁も然り。
うまうまのまいう〜 (*≧∀≦*)
ほっぺたが落ちるほど、私の場合は美味しさでほっぺたがたるんでる〜🎵
この食の美味しさや楽しさも、若い頃と感じ方が違う。
プチプチッと口の中で弾けるいくらの粒。
いくらと一緒に盛られている脂ののったサーモン。
じわっと感じるあさりの旨味。
ん〜。
色んなことを経験してきたからこそ、こんな風に感じられるようになったのかな?
むしろ、感じ方の幅が広がっていくなら歳をとるってステキなことかもしれない。
な〜んて思う今日この頃。
相棒と沢山撮った写真を帰宅後母に見せると、母も懐かしんでいた。
毎年、父と行っていたみたいだから。
梅収穫期には梅を売り出すみたいで、それで梅干しを作っていたらしい。
あ!好文亭近くで飲んだ梅ソーダ。サッパリとして美味しかったな〜。
こんな楽しい日は、幸せに浸りながら心地よい眠りにつきたい…
が、現実は甘くなかった。
この夜…
お読みいただきありがとうございます。
続きは次回ということで、今日はこの辺で。