負けるもんか! Emiの聴神経腫瘍・三叉神経痛・顔面神経麻痺の記録

聴神経腫瘍・三叉神経痛・顔面神経麻痺を患い、肋間神経痛・頻脈もある私の備忘録。

母の引越し その①

2016.4.5

 

父が亡くなってからちょうど8ヶ月経った日、私と息子たちが住むこの街の新居へ母が一番初めに引っ越してきた。

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3月後半に実家へ行った時、約30年両親が住んでいた家の中は整理され随分スッキリしてしまった。

 

一階・二階の各部屋や、廊下、ベランダ、庭、家の外観や玄関の写真を記念に何枚も何枚も撮った…

 

この家の中に居る母の姿も…

はい、ポーズ!カシャっ ( ´∀`)

 

 

 

父の退職金で建てたこの家に両親が暮らし始めたのは私が二十歳の秋。その翌年の春、専門学校を卒業した私が加わった。

 

都内で一人暮らしをしていた私を呼び戻すために作ってくれた二階の広〜い部屋は夫婦の寝室より倍ぐらいある。そうまでして両親は私と暮らしたかったんだなぁ(感謝)。

 

当時は家の周りにまだ建物が少なく、カーテンを閉め忘れて寝てしまった翌朝、起き上がった瞬間に、目の前に広がる筑波山に感動し、思わず『わぁぁぁ』って言っちゃって、しばらく見入ってたっけ 笑

 

 

国家公務員だった父の転勤で高校入学後も転校の可能性があり、編入試験は大変だからということで、中3の初めに就職が決まり一人暮らしを始めた姉のアパートで一緒に暮らすことになった。

 

 

 『まだ中学生のEmiを親元から離す事になって、寂しい思いや不憫な思いをさせてしまっている』

 

と、ずっと母は私に負い目を感じていたらしく、仏壇の前で亡くなった義母に手を合わせながら泣いていたと大人になってから聞かされた時は、胸が締め付けられた。

 

 父が厳しかったこともあり、親元を離れた私は気ままな姉妹生活をエンジョイしていたし、三年後、姉の結婚が決まってから私が高校を卒業するまで母が二重生活(週末に父の所へ)をし、身の回りの世話をしてくれるようになったので、両親が思うほどあまり苦には思っていなかったから…

 

本当は新宿辺りで一緒に就職しようと同じ学校の友人に誘われていたけど、私とまた一緒に暮らしたいという両親の想いと広〜い部屋という誘惑に負け、そんなこんなで再び両親と暮らすことになった。

 

 

 

その後、一年半程で私は結婚し、その広〜い部屋は数年後にPC3台と何百冊もの専門書が並ぶ父の仕事部屋となった…

 

 

 

母の引越し前日。

仕事帰りにランチパックのツナとピーナツバターとたまごを買って実家へ向かった。

引越しの朝は忙しいからと、母と綿密⁉︎に打ち合わせたメニューだ。

 

父が倒れて実家への往復が増えてから、いつしか母は私が到着すると『お帰り』と言うようになっていた。そして、この日もインターホンを押すと『お帰りなさい。お疲れ様でした。』と母が玄関のドアを開けてくれた。

 

 食事を済ませ入浴して床につく。この家で寝るのは今日が最後。 目を瞑ると数々の思い出が浮かんでくる…

 

 

 新し物好きだったパパが当時発売開始されたばかりのホームビデオを購入し、仕事から帰宅して食事をしている私をよく撮っていたなぁ。

 

母方の祖母と当時3歳だったいとこが遊びにきてくれた時、一番歳が近い(といってもひと回り以上離れてる)私の帰宅を待ってくれていて、

 

『お姉ちゃんが帰ってきたー (*゚∀゚*)/  遊ぼー』

 

仕事でクタクタになっていたけど、馬役や亀役になって遊んだなぁ。背中に座布団といとこを乗せ て。

 

お風呂にも一緒に入って、頭を洗う時に大泣きされて…でも、いつもどうやってもらっているのかを聞いて、それを自分が母親になった時に実践したっけ。

 

結婚式の数日前にママと喧嘩して、式には出ないと言われ焦ったけど、謝ってなんとか仲直りε-(´∀`; ホッ

結婚式前夜、

『まだ、寝ないのか?お姉ちゃんが結婚するときは、まだEmiがいるって思ったけど、なんだか悔しいな。』

とパパに言われ頭を小突かれた 笑

素直におめでとうって言ってくれればいいのに。

照れくさいのか、複雑なのか…

 

そんなパパに似て、私も嫁ぐ時のお決まりの台詞が言えなかった。言葉にしたら泣いてしまいそうで照れ臭かった。パパに小突かれた時にコソコソ書いていた手紙を当日の出発間際、ベッドの上に並べて置いた。

パパへ…

ママへ…

 

そのうち見つけて読んでくれるはず。

 

大好きな人と一緒になるのに、大好きなパパとママと離れてしまうのが凄く寂しくて、凄く悲しくて、泣きながら書いた手紙…

 

嫁いでから初めて実家へ来た時、ベッドの上に手紙はなかった。その手紙のことには触れなかったけど、どんな想いでパパとママは読んだのかなぁ…

 

ちょっと抵抗があったから、第一子は女医さんが良くて、実家の近くに母が見つけてくれた産婦人科へ通った。里帰り出産もした…

 

そして息子たちが生まれ、何度も遊びに来たり何度も泊まったなぁ。

 

お正月にはお節を食べて、節分には豆まき、バレンタインにはパパにチョコをあげて(甘党のパパは大喜び)、端午の節句にはお祝いをして…

 

孫の為にブランコを家の中に置いてくれたり、おもちゃもお菓子も沢山用意してくれていた。

『お母さん、また孫たちにお菓子をたくさん買ってたよ。お母さんの楽しみのひとつだからね。』と言うのが父のお決まりの台詞。

 

仕事が休めず、子供が病気や怪我をした時に預かってもらったなぁ。

私と離れるときは泣いていた小さな息子たちも、祖父母との快適な暮らしに満足して私が迎えに行くと帰るのを渋ったっけ。笑

 

 自宅の隣りに持っていた土地で父が野菜、母が草花を育てていた。

 

孫に芋掘りをさせたいと育ててくれたジャガイモやサツマイモ掘りをした庭の畑。

 

インゲン豆、キヌサヤ、ミニトマト、キュウリ、ナス…おじいちゃんと一緒に野菜の収穫を手伝ったね。私は可愛い息子の姿をホームビデオにおさめるのに夢中だった。

 

おばあちゃんが育てたチューリップの前で写真も撮ったね。庭のお花の名前をおばあちゃんから沢山教えてもらってた息子たち。

 

柿の種を蒔いて柿の木を育てたり、次男は小遣い稼ぎに庭の木を剪定して、お駄賃を大きなタヌキの貯金箱に貯めていたなぁ。

 

プー(飼犬)と庭で遊んだなぁ。

実家のことをプーのおうちって呼んでた。

実家の近くまで来ると、息子たちはおじいちゃんとおばあちゃんとプーへの逢いたさを抑えきれず、

 

『ママー❗️車停めて‼️』

 

車から降りて走り始める。

ピンポンを押し、中から祖父母が出て来ると皆の顔からは溢(こぼ)れんばかりの笑顔が溢(あふ)れてた。

 

祖父母への挨拶が済むとプーの所へ行き、思いっきり撫でたり顔を擦り付ける笑

プーもちぎれんばかりに尻尾をブルンブルン振っていた。

 

でも、息子たちが小学生の頃、死んでしまったプー。

庭のもみじの木の下に母と次男と一緒にお墓を作ったなぁ。

 

 

 息子たちの七五三の時に写真を撮った玄関。

 

長男と3日違いで生まれたお向かいの女の子の兄弟と遊んだ家の前の道路。

 

プールで水浴びした庭先。

 

春休み・夏休み・冬休み、毎回羽を伸ばしに来たなぁ。

 

沢山の思い出がこの家には詰まっている…

 

 

 

 

暗い部屋で目を閉じると溢れ出す思い出と一緒に涙も溢れて止まらなかった。

 

 隣で眠る母に気付かれないように、声を殺して泣き続けた。

 

さようなら、大好きなパパとママの家。

沢山の想い出をありがとう…